真夜中のラヂオ

雨上がりの後に

 商店街にあるベーカリーショップの前で彼女を見かけた。彼女は手のひらをそっと空へ向けて差し出て、ため息をつく。ため息につられるように頭を下げ、乾いた髪が彼女の顎のラインを伝い滑り落ちていく。どうやら雨に当たらずに済んだらしいが、激しくなる一方の雨足に帰りあぐねているようであった。手持ちぶさたなのだろうか、視線がさ迷う。
「氷室先生」
 側へ近づいてみると、彼女の前髪に小さな水滴がいくぶんか付着していることに気づいた。おそらくこの風でひさしの中まで雨が届いてしまったのだろう。
 彼女は驚いたまま私を見上げる。
「このような遅い時間まで、ひとりで出歩くのは感心しない」
「すみません。もうちょっと雨が弱くなってから帰ろうと、雨宿りしてるうちにどんどんひどくなってきてしまって……」
「では、私の傘に入りなさい。家まで送ろう」
「え!?」
「君の家は私の帰途にある。そのような顔をしなくともよろしい」
「はい。氷室先生、ありがとうございます」
 やや傘を差し出し、彼女が入りやすいようにする。彼女は私の左隣へ立ち、ぬれてしまわないようにとの気づかいなのかカバンを両手に抱えた。歩き出した私に合わせ、彼女が小走りぎみで添い歩く。若干、歩幅を調整し直すと、彼女はほっと息をつき、いつもの調子に戻した。
 見下ろした彼女は常より幾分か硬い表情をしている。緊張しているのかもしれない。
 一瞬、彼女の肩が不安定に揺れて私の肩へ触れる。
「あっ、すみません」
「……いや、構わない」
 折りたたみ傘のように小さくはないが、さすがに二人で一つの傘はいささか窮屈だ。ん? 二人で一つの傘……?
 いや、これは断じて相合傘などというものではなく、夕立に遭遇し困っている一生徒を、偶然通りがかった私の傘へ避難させただけのことで、決して他意はなく、万が一彼女に風邪を引かせては、後の学業にもさしさわりがあるというものだ。期末テストを一週間後に控えているこの時期は、とくに健康に留意すべきである。
 さらに付け加えるならば、彼女の家は私の住むマンション・アイシクルパレスにほど近く、わざわざ遠回りするなどという非合理的な行動をとる必要もない。つまり私が彼女と同じ方向に連れだって歩くという状況に不自然な点は何ら見つからない。以上の点をかんがみると、むしろ知らぬふりをしてあの店の前に彼女を置いて帰ることこそ、教師として不自然な行動である。日も暮れ、ひとり寂しげにたたずむ彼女に声をかけようとする不届き者がいたかもしれない。……となると私が通りがかって実によかった。
「先生……氷室先生!」
 はっとして彼女を見ると、先ほどのように手のひらを上へ向けていた。
「もう雨、やんじゃったみたいですよ」
「ああ……そうか」
 確かに空を覆っていた雨雲は晴れ、青空が出てきていた。
 胸に重くわだかまるものを感じながらも、私は軽く水滴を払って傘を閉じた。
「ん……?」
 なにも思いわずらう必要はないはずだ。彼女は晴れやかな顔で私を見ている。雨に当たらずに済んで誠に結構なことだ。雨の恵みは必要だが、傘が必要ないに越したことはない。晴れてよかったに違いない。そうに決まっている。
「どうかしたんですか、先生?」
「別にどうもしない」
「なんだか、ガッカリしてるみたいに見えますけど」
「なに!?」
 私がガッカリしている、だと? なぜこの状況を残念に思う必要がある。晴れ上がった青空は実に爽快ではないか。
「もしかして氷室先生って雨が好きなんですか?」
「なぜそうなる」
「だって、わたしが雨がやんじゃたみたいですよって言った途端にガッカリした顔になってましたよ」
「……コホン。私は、別段雨が好きというわけではない」
「じゃあ、どうしてガッカリしたんですか?」
「そもそも私はガッカリなどしていない。以上だ」
「えぇ〜」
「“えぇ〜”ではない。君の家に着いた。もう帰りなさい」
「あれっ、いつの間に……」
 彼女は家を見上げて驚いている。
「氷室先生、傘に入れてくださってありがとうございました」
 頭を軽く下げ、彼女は家の中へ入っていく。
 すでに必要のなくなった傘から、しずくがこぼれ落ちていた。

(2004年7月15日) 


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