真夜中のラヂオ

片思い



 卒業式を間近にひかえた二月のある日のことだった。全体練習を終え片付けを行なっている最中、彼女が大きくため息をついた。動作にも力なく、椅子につまずくなど注意が散漫になっていた。
「今日は調子が悪いのか? 卒業式に備えて体調を整えておきなさい」
「はい、すみません……」
 話をしていると、いつのまにか周りには誰もいなくなっていた。
「先生……」
 何か物問いたげな眼差しが私に注がれた。すがりつくようでもある。
「……コホン。何か困ったことがあるのならば、いつでも相談を受けつけているが」
「先生あの……」
 みるみる彼女の頬が赤く染まった。どうしたことだろう、一体何が彼女にそうさせたのか。少なくとも私は何もしていないのだが。
「もうすぐ三年生は卒業してしまいますよね……」
「ああ、きたる三月一日の卒業式のために、我が吹奏楽部は練習に励んできた」
「好きな人がいるんです。片思いしています。三年生なんです」
「……そうか」
 実のところ私は彼女が誰を思って悩んでいるのか知っていた。吹奏楽部の元部長だ。一流大学への進学が決まっている前途有望な男子生徒で、人当たりもよく後輩に慕われていた。彼女もその中のひとりだったというわけだ。
「……なかなか告白できなくて、でも卒業式には言いたいんです。告白するだけでも」
 思いを吐露する彼女はいつもより幾分か大人のように見えた。恋が彼女を成長させたのだろうか。そう、ありとあらゆる経験が人を成長させるのだ。そしていつか少女から大人の女性になるだろう。私の元を離れて。
「告げる……だけ、か?」
「はい。いいんです」
 笑った彼女は今までにないほど晴れやかな顔をしていた。そして同時に誇らしげでもあった。
「すいません、なんだか突然ヘンなこと……。でも、先生に言ったらなんだか気持ちの整理ができちゃいました」
「そうか、それはよかった。しかし私などより君の友人に相談した方がより適切だったと思うが」
「でもわたし、あまりこういう話は友達には言いにくいんです。他のどんな恥ずかしい話でも大丈夫なんですけどね。不思議と先生にはこうやってすんなり話せるのに」
 それはおそらく私が教師であり、君の担任であり、部活の顧問であるからだ。また、全てを話すような親しい間柄でもなければ、顔見知りの同級生でもない、厳格で冷静沈着――まるでアンドロイドのような人間であるからこそ、彼女も安心して告白することができたのだろう。
「君の……健闘を祈る」
「ありがとうございます、氷室先生」
 私はその恋が叶わないことを知っていた。彼には一年年上の恋人がいるのだ。彼女も吹奏楽部の部員で、部長だった。
 彼女を気の毒に思うと同時に心のどこかでそれを喜んでいる自分がいる。嫌悪すべきことだ。自身の幸福を願うために他人の不幸を願う。それも彼女の不幸を。

 
 卒業式はつつがなく行なわれ、吹奏楽部有志から部員だった卒業生にそれぞれ花束が贈られた。彼女は花束を手渡すとき、目を真っ赤にして涙を必死になって堪えていた。
 今からこれではきちんと告白することはできるのだろうか。緊張したためにろれつがまわらなくなり舌を噛んでしまったり、呼び出しの場所をうっかり間違えて行ってしまったりはしないだろうか。私が告白するわけでもないのに朝からどうも落ち着かない。
 彼女の傷ついた顔が目に浮かぶ。やはり、彼女に本当のことを告げるべきだったろうか……。
 体育館へ持ち出された楽器は全てもとの配置に戻された。いつもの音楽室だ。やはりこの状態が一番落ち着く。いつも空間を占めていたものがないということは何か物足りなさを感じさせる。窓から空を見ると雲が赤く染まっていた。卒業生たちは日が暮れた今、既に帰路についていることだろう。彼らの前途はまだ長い、始まったばかりといっても過言ではない。長い人生つまずいてしまうことも多いだろう。だが、それを乗り越えてこそ成長はある。どうか彼らがそれぞれの道を歩んでいけるように。私はただそう願うのみだ。
「先生」
 目を真っ赤にさせたままの彼女がドア口に立っていた。
 答えはあらかじめ分かっていた。
「アハハ……やっぱり、ダメでした」
 笑い声を上げた反面、今にも泣いてしまいそうな顔で両手をきつく握り締めたまま私が立つ窓際へと歩み寄ってきた。
「彼女がいるって、きっぱり断られました」
「そうか」
「……先生、苦しいです」
 彼女は泣いていた。嗚咽も上げず、ただひっそりと涙を流していた。
「好きって、すごく楽しくって嬉しくって。明日もがんばろうってすごく元気にさせてくれたのに……でも今は苦しいです。何か喉の奥につまってるみたいに」
「……君は、今真っ直ぐ前を向いている」
 彼女は眉を寄せ、おそるおそる私を見上げると、うなだれた。
「うつむいています……」
「そういうことではない。君は今確実に自分の心と向き合っている。そこから逃げずに立派に立ち向かったのだ。……よくやった」
 スーツのポケットからハンカチを出し、手渡すと彼女は背を向けた。どうやら涙を拭っているようだ。今日は彼女の泣き顔ばかり見る。見ている私もつらいが、一番痛みを感じているのは彼女のはずだ。何か力になることができるのならばしてやりたいものだが、何をすれば良いか分からない。こういったとき、自分の不器用さがもどかしく思える。今の言葉をかけてやることと、ハンカチを渡すことだけが私の出来る全てだった。
 振りかえった彼女は私に微笑みかけた。この日初めて見た笑顔だった。
「先生、ありがとうございます」


 三月の卒業式以来彼女とはよく話すようになった。それも私が最も苦手とする分野の話題ばかりだ。
「男の人って、年上の人が好きなんでしょうか?」
「性別という大まかなくくりで異性の好みを断定することは難しい。更に、傾向としてはありうるだろうがただ年長であるとか、年少であるといった点から恋愛感情を抱くとは到底言い難い。それよりも恋愛感情を抱き得るような、より強力な何らかのファクターが相手に備わっているかどうかが問題だ」
「先生は年上と年下、どっちが好きですか?」
「私の話を聞いていたのか? まったく君は。……その質問は、私自身の極めて個人的な趣向について尋ねていると解釈して間違いないな?」
「はい。ぜひ、知りたいです!」
「コホン! …………どちらでも構わない」
「そうなんですか。……わたしは年上の人の方が好きです。なんだか一緒にいてすごく安心するんです」
 私をじっと見て嬉しそうに微笑んだ。たった今言った言葉の意味がわかっているのか? 彼女は無防備に私への好意をさらけ出す。例えそれが教師としての私に対するものだとしてもだ。
「…………君は隙がありすぎる」
 幸いにして彼女にこの呟きは聞こえなかったようだ。
「先生?」
「どうもしない。そんなことよりも、先程の話を続ける。そもそも人が抱くとされる恋愛感情とは……」

 全幅の信頼を置かれ、私は彼女と共にある。今だけでもいい。彼女が経験した痛みをいつか私も感じることを予感しながらも、この場を離れることなど出来ないでいる自分にため息をついた。

(2003年3月1日) 


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