真夜中のラヂオ

過去



 あいつは、ちょっとぼんやりして、放っておくと危なっかしいところもあって、でも不意に年上みたいになって説教したり、世話を焼いてきたりする。笑うと、見てるこっちまで嬉しくなるような笑顔には戸惑ってしまう。何故こんなにも無防備に振舞えるのだろうと。
 あいつは一見どこにでもいるような感じで、あまり目立たなく見えるけど、実は違う。ものすごく……特別だ。これは俺だけが気づいているんだと思う。

 俺はこんなだから、時折構ってくる人間ですら最後にはあきらめて離れていってしまう。それは寂しいことなのかもしれないけれど、仕方ないことだとも思っていた。どう答えていいかよくわからないから、側に残られても少し困ってしまう。あいつは、そんな俺に対して何も求めず、押しつけず、ただ一緒に居てくれた。空気のように……でも確実に温かく俺の傍に。
 モデルのバイトは嫌いではなかったけれど、好奇心で近寄ってくる人たちには参った。どんな物が好き? どんな女の子が好み? 食べ物は何が好き? 彼女はいる? 根掘り葉掘り俺に尋ねてくる。そんな質問に面倒になって俺が答えないでいると、今度はえらそう、お高くとまっている、モデルをやっているからっていい気になるな、なんて言われる。
 それだけじゃない、この髪と目の色だって周りと随分違っているから、自然と遠巻きに見られてしまう。まるで動物園のパンダのように見世物扱いだった。もちろん両親やじいさんから受け継いだものの色が嫌いだなんて思わないけど、日本に戻ってきたときまるでパンダのような自分が悲しくて、もし黒い髪に黒い目だったらどうなっていたんだろうとぼんやり考えたこともあった。
 人間を相手にするよりも、猫を相手にしているときのほうがずっと気が楽だ。あいつらは何も言わず、俺に何か言わせようとか何かさせようとか押しつけてこない。ただ一緒にいるだけでいいんだ。
 最初、あいつは猫みたいだと思った。側に来て、たまに離れて、でも一緒にいると何故だか落ちついて、不思議な気分にさせられる。今でも猫みたいだと思うときがあるけれど、ちょっと違うことに気づいた。でもそれが何て言っていいものなのか、ぴったり合てはまる言葉が見つからない。でも、ただどうしようもなく温かい気持ちになれる。
 あいつと話したりどこかへ遊びに行ったりしていると、ふと夢を見てるみたいに感じることがある。これまで誰かと遊びに出かけようなんて思いもしなかったから。でもあいつがたまにだけど、俺を誘ってくるから。だんだん俺も慣れてきたかもしれない……なんて最近は驚きながらそう思っている。


 ある日曜日、あいつの家に呼ばれた。青い屋根の一軒家。
「お邪魔します……」
「はい、どうぞ! いらっしゃいませ」
 私服姿は何度も見ているけど自宅だからなのかいつもと雰囲気が違っているみたいで新鮮だった。柔らかそうなサマーニットから伸びた腕が眩しい。すすめられるままに二階のあいつの部屋に入った。そこは明るい色調で整えられれていた。ふわふわのぬいぐるみがベッドの脇を占めていて、あいつを幼くみせている。同時に懐かしい思い出が脳裏に浮かび上がった。



 俺はあいつに秘密にしていることがある。昔、まだ俺たちが小さい頃会っていたことだ。今通っているはばたき学園にある教会で、俺たちは絵本を読んだり、四葉のクローバーを探したりしてよく遊んでいた。俺の両親がドイツへ行くためこの町を離れるとき、ふたりの間でひとつの約束を交わした。最後まで読むことが出来なかった本の続きを必ず戻ってきてあいつに教えてやる、と。それから日本に戻ってきた俺は真っ先にここへ走った。けれど両親が転勤したために遠くへ越してしまったらしく、空家だった。
 もう、会えないかと思っていたのに突然高校生になったあいつが目の前に飛び込んできた。入学式が始まる前、俺は式場に足を向けることもなく教会へ行った。先に誰かが来ていて、どうしようか迷っている俺にそいつがいきなり振り返って走ってきてぶつかってきた。あいつだった。ずいぶん成長していたけど、声も顔も面影をそっくり残していて、一目で分かった。目を丸くしたあいつは謝って、俺を先輩なんて言った。覚えていないとわかった瞬間ひどくがっかりした。けれど今の俺は昔の俺とは違っていたから、安堵もした。昔の思い出のままの俺だけを知っていればいい、今の俺を知ったらきっと幻滅するだろう……そう考えて何も言わなかった。ただ、名前だけを告げてそのときは別れた。
 同じ高校へ通うことになって、ドキドキした。でも、同じ学年と言うだけで何てこともないんだ。そう言い聞かせてもやっぱり俺は緊張したまま翌日学校へ行った。教室にはあいつがいた。同じクラスの女子と楽しそうに話していた。一瞬あいつと目が合って、気まずく思ってそらそうとしたらちょっと笑顔になって手を振ってきた。俺も手を振り返せばいい、そう思ったけど腕が急に重たくなったように動けなかった。ただ気恥ずかしくなってそのまま目をそらした。すると、あいつは拍子抜けしたみたいに首をちょっとかしげてまた話に戻ってしまった。
 もしかしたら、と期待があった。昨日帰ってからあいつは昔教会で会ったことを思い出して、今日話しかけてはこないだろうか……なんて都合いいことを勝手に考えていた。結局あいつとは一度も口をきかないまま授業が終わり、いつものように家に帰った。
 その途中、通りかかった公園の前で名前を呼ばれた。振り返ってみるとランドセルを背負った小学生が立っていた。あいつと同じような赤茶けた髪で、顔は小さい頃のあいつにどことなく似ていた。しかし幼い口調でもなく、自身満々の声で真っ直ぐ俺を睨むように見てきた。上から下まで品定めするように見ては何かメモに書いて、最後に携帯のナンバーが記されたメモを渡してきた。とにかくなんでもいいからここにかけろと何度もしつこいほど念を押してどこかへ行ってしまった。普段ならそんなものすぐさまゴミ箱へ投げてしまうところだ。けれど、できなかった。
 家に戻ってベッドで寝転がり、あいつのことを考えて手の中のメモを開いた。
 電話をかけてみる気になったのは、メモを渡してきた小学生が驚くほどあいつに似ていたから。ただの空似かもしれない。でも何かがあいつと繋がっているような感じがする。数回のコール音の後に、相手が出た。
「はいはい」
 電話番号の持ち主はあいつだった。話は思っていた以上に続いた。携帯を切ったとき時計を見るとかなり時間が経っていて驚いた。柔らかい声の余韻を残す手の中のものを再び見たその途端、大きなため息が出た。少し右手が湿っていた。
 この最初の電話がきっかけで俺とあいつは言葉を交わすようになり、今ではこうして休みの日に会うぐらい近い存在になった。



「葉月くん? どうしたの、きょろきょろして」
「おまえらしい部屋、だな」
「そうかな、ありがと。あ、座って! 今何か飲み物持ってくるから」
「ああ……」
 立ち上がったあいつが勢い良くドアを開けたと同時にあいつの弟……尽が入ろうとしていた。手にはティーポットとカップをのせたトレイを持っている。
「きゃっ」
「っとと、危ないよねえちゃん!」
「ゴメン……こぼさなかった? 火傷してない?」
「そんなヘマしないって。いいから、ねえちゃんは座ってろよ」
 行儀良くあいつは俺の正面に座りこむと、尽はニヤニヤ笑いながらトレイを置いた。まさか、こいつが本当にあいつの弟だったとは思わなかった。こうしてならんでふたりを見ると結構似ている。髪の色とか、顔のパーツだとか。まあ性格はだいぶ違うようだけど。
「じゃあ、ごゆっくり〜」
 妙に意味ありげな笑いを顔に浮かべて尽は部屋から出ていった。ふとあいつのほうを見ると、目が合った。
「あ、紅茶入れるね」
 丁寧な仕草でカップを引き寄せ、きつね色の紅茶をポットから注いでいく。あいつの神経が全部そこに集中しているみたいですごく真剣な顔つきだった。バイト先の喫茶店で水を入れているときにもこんな顔してる。
「葉月くん……今なんか笑った?」
「いや……別に」
「だって、口の端がちょっとだけど上がったもん」
「そうか?」
「うん」
「じゃあ、そうなんだろうな」
 そう言うと、急に毒気を抜かれたようなヘンな顔して俺をじっと見てきた。
「砂糖は、これでよかったよね?」
「ああ……サンキュ」
 最後に輪切りのレモンをのせて渡してきた。一口飲むと甘酸っぱい味が広がった。

 突然あいつが昔の話をしてきた。はばたき市に以前住んでいた、と。俺は喉まで出かかった言葉をゆっくり飲みこんで続きを聞いた。小さかったあいつはあまり覚えていないらしい。でもなにか大切なことがあったような気がする……そう照れながら笑って言った。
 チャンスかもしれない。本当はずっと黙っているつもりだった。あいつの思い出を傷つけたくないって諦めることにした。でも、もしかしたら…………。
「おまえ……覚えてるか?」
「何を?」
「俺の……」
 再び扉が開いて尽が入ってきた。
「いや〜、悪い! ケーキ持ってくんの忘れちゃってさ」
「もう! どうしてそんなこと忘れるの? 紅茶とケーキってセットじゃない」
「うっかりってねえちゃんにだってあるだろ? それだよ」
 それでも随分とタイミングがいいようだった。
「う……、それはそうだけど」
「はい、どうぞ!」
「……ありがと、尽」
「どうしたしまして。じゃあ、今度こそごゆっくり〜」
 出ていく尽を見ていたら目が合った。そのときにやりと笑ったような気がした。もちろんあいつはそんなところを見ていない。目の前のケーキにクギ付けだった。
「じゃあ食べよっか、ケーキ」
 先ほど言おうとしていた言葉を思い出して、恥ずかしくなってきた。何、言おうとしていたんだ俺は……。
 イチゴのショートケーキをじっと見つめるとあいつは一番初めに大きなイチゴを口一杯に頬張った。いかにも美味しそうに食べるものだから、こっちまでそんな気分にさせられる。
 しばらくケーキを食べているとあいつが驚いたような声を上げた。
「なんだ……?」
「葉月くんて、イチゴ嫌いだった?」
 そうあいつが思ったのは、たぶんイチゴを皿の脇に避けていたからだろう。
「いや、嫌いじゃない……」
「ホント? 無理しなくていいんだよ。この前はちょっとお節介なことしちゃったかなって思ってるし」
「……ああ、カイワレのことか?」
 後で振り返ってみると、俺も少し子供っぽかったと思うから別に気にしていない。おかげでカイワレも結構美味しいものだってわかったから、感謝してるくらいだ。
「うん。あとで尽に言われちゃった。そんなんじゃフラ……じゃなくて、えっと」
「好きなんだ」
「えっ!?」
「イチゴ、後に取っておくつもりだった」
「あ…………そう、なんだ。アハハ……」
 どことなく期待はずれだったような笑い声。もしかしたら、俺が食べないと思ってイチゴをもらいたかったのかもしれない。けっこう食い意地もはっているあいつのことだ、きっとそうだろうな。
「俺のイチゴ……食べるか?」
「えっ、だってさっき好きだって言ってたでしょ?」
 不思議そうに俺を見上げてくる。
「おまえ、最初に食べたからもうイチゴないだろ」
「あ……そっか」
 俺に分からない何かが分かったのか何度かうなずいて俺の皿と自分の皿を見比べた。
「こういうケーキにのってるイチゴとか先に食べちゃうのって、兄弟がいる人が多いんだって」
 突然何を言い出すんだろう。たまに突拍子もない行動を取るから、側にいるとドキドキする。すごく危なっかしくて、放っておけなくて……ともかく目が離せなくなる。
「でも、葉月くんは一番最後にイチゴ取っておいたよね?」
「ああ」
「それって一人っ子の人がよくやるんだって。ほら兄弟がいたら、おやつってとっておく間もないくらい取り合いになっちゃうじゃない?」
「そうなのか?」
「うん。うちも小さい頃はわりとそうだったよ。歳が離れてるからしょっちゅうってわけじゃないんだけど、放っておくとわたしの分までおやつがなくなっちゃうときがあるんだもん。それで食べ物が絡むと結構しょうもないことでもケンカしちゃうの。あっ、もちろん今はそんなことしなくなったけど」
「……楽しそうだな」
 ぽつりと呟くと、あいつの笑顔がほんのわずかに曇った。たぶんずっと見ていた俺じゃないと気づかないくらいの変化だ。
 あいつは俺がちょっとでも寂しいとか、切ないとか思ったときは必ず感じ取って慰めたり励ましたりしてくれる。そんなに優しくされても、俺はその何分の一だって返すことができないというのに。
「あ、ゴメンね。わたしの話ばっかりしちゃって」
「別に気にしなくていい……。おまえの話……面白いから」
 そう……今はこのままでいいんだ。あいつがすぐ傍にいてくれるから。


 それでもたまに思い切れなくて、全てを話してしまいたい衝動にかられる心を押し隠して、俺はあいつに微笑む。

(2003年3月1日) 

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