真夜中のラヂオ

呼び止める声

「今日はここまでとする。136ページからの練習問題は次の授業までによく復習しておくように」
 張り詰めた空気が瓦解する。窓際の最前列に座る彼女はノートに書き足して立ちあがった。氷室が振り向いた瞬間、ふたりの視線がぶつかった。氷室は彼女の名前を呼んだ。
「はい」
 凛とした声が心地よく氷室の耳を打つ。瞳で氷室を射るように真っ直ぐ見つめてきた。打てば響くように返ってくる声に氷室は満足した。教卓に山と積まれた課題に手を置いて言った。
「君は本日の日直だったな、職員室まで運ぶのを手伝ってくれ」
「はい」
 彼女の後ろで藤井が気の毒そうな声と視線を投げかけていたが、氷室がそちらを向いたとたん慌てて笑顔を浮かべてごまかした。

 職員室から長い廊下へ出た直後、氷室は見なれた後姿を見とめて呼んだ。
 すると肩まで伸ばした色素の薄い彼女の髪がさらりと揺れて振りかえった。
「はい」
 走らない程度に氷室の前まで飛んでくる。素直な返事が氷室には好ましく思えた。一心に見上げてくる彼女に、持っていた長い鍵を手渡した。
「音楽室の鍵を開けておいてくれ。私は会議で少し遅れる」
「はい、わかりました」
 
 氷室は彼女の名を呼んだ。
 返事がない。重ねて呼ぶが、全く音沙汰がない。彼女は椅子にもたれたまま安らかな寝息を立てている。
 他の部員は、みな帰ってしまった。一人居残って練習をしていたらしい。
「起きなさい」
 ドア越しに、遠くから生徒の声が聞こえてくる。騒々しい足音にも関わらず起きない。廊下を走る生徒に注意しようと翻した氷室のスーツが引っ張られる。いつのまに握ったのか、彼女の手がしっかりと掴んでいた。
「……コホン、離しなさい」
 何かをつかんで安心したのか、寝顔は先ほどよりずっと柔らかいものになっていた。無防備なあどけない姿に、氷室は躊躇した。
 ひとりで顔を赤らめたまま、極めて冷静さを保ってスーツの裾を引っ張った。握る力は殆どないためにあっさりと放され、かえって肩透しを食った。
「起きなさい。君はいつまで寝ているつもりだ。葉月ではあるまいに、眠るのなら家へ帰ってからにしなさい」
 顔をしかめたまま氷室は肩を揺さぶる。早く起きるように、けれど決して驚かせてしまわないように。
「う……ん」
 まぶしそうにまばたきをして、瞳を開いた。氷室の顔を認めると、慌てて立ちあがった。
「ひ、氷室先生!」
「もうすぐ日が暮れる。こんなところで寝ては風邪を引いてしまうだろう。それから、フルートは大事にしなさい。抱えて眠ったまま落としたらどうするつもりだ」
「すみません」
 氷室の叱責に、小さくなって謝る。すぐさま慣れた手付きでケースへフルートをしまった。氷室はその姿をみて、入部したての彼女を思い出した。あの頃は何もかもが初めてだったようで、楽器の扱いを一から氷室が教えなければならなかった。だが、持ち前の真面目さと勤勉さも手伝ってか、割合早々に要領を飲みこんでしまった。そう、毎日のたゆまぬ努力こそ大事なのだとひとりごちて氷室は頷き、机に置いてあったタクトとファイルを携えた。
 彼女の支度が整うと、電気のスイッチを切り鍵を閉める。ドアの開く音が廊下に響いた。
「氷室先生、さようなら」
「ああ、気をつけて帰りなさい」
 軽く会釈して離れた彼女を見送るが、不意に何かに惹きつけられたように堪らなくなって名を呼んだ。
「はい」
 彼女は足を止めて振り向いた。黙ったままでいる氷室に、訝しげな表情を浮かべる。我に返って氷室が口を開いた。
「……明日の課題を忘れないように」
「はい、わかりました。……さようなら先生」
 一体なんと言おうとしていたのか。氷室は自問した。
 遠ざかっていく彼女の後姿を眺めて深くため息をつく。
「どうかしている……」

(2013年3月24日) 


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